「松本零士創作ノート」より 宮川総一郎 編集 インタビュアー
※ベストセラーズ発売の書籍、「松本零士創作ノート」(2013年8月25日初版発行)の再版発行をめぐり、「零時社」は発行の条件として、①著者名から「松本零士」を外すこと、
②第3章の本文21項の全面的削除を要求しています。以下に第3章の全文を掲載します。
本章は松本零士の漫画家としての黎明期から、出世作「宇宙戦艦ヤマト」創作、執筆の時代の生みの苦しみを語る重大な描写であり、氏の創作活動を語る上で欠くことのできない章だと考えます。
第3章 宇宙戦艦ヤマト発進!!
アニメーションはSF漫画の世界に想像の翼を広げてくれた!!
宇宙空間に日本が誇る大戦艦大和を宇宙船として飛ばせる、宇宙艦隊の艦隊決戦、遊星を落とす爆弾兵器、以前から暖めていた数々のSFアイディアを映像化するチャンスがやってきた。昭和四十九年『宇宙戦艦ヤマト』の誕生である。
『男おいどん』によって私は、漫画を描くことに迷いがなくなった。使命感と目的意識、作品の登場人物のほとんどは自分の体験に基づいているから、描いていても「地に足のついた」気持ちの落ち着きと冷静さを持って、挑むことができたのだった。
『男おいどん』の連載が終わってしばらくした頃、『宇宙戦艦ヤマト』を執筆することになった。昭和四十九年のことである(十一月号より連載開始)。
依頼は「冒険王」(秋田書店)からで、アニメーションの『宇宙戦艦ヤマト』の企画は西崎義典氏が進めており、テレビ・アニメ化も決まっているとのことだった。彼が持って来た企画書にざっと目を通したが、失礼ながら、漫画作品としてはそのままではとても描きずらいもので「原作を作り直すがいいですか?」と確認したら「全部好きにやってくれ」というので引き受け、全面的に書き直しをした。だから一部を残して原案とは、まったく別のものになっている。
アニメーションを作るという、かねてからの夢がかなったわけではあるが、正直なところ「よりによって戦艦大和か」と気が重かった。できれば戦記ものではなく、後の『銀河鉄道999』のようなサイエンス・ファンタジーを最初にやりたかった。
『ヤマト』という名を使って表現する以上、覚悟が必要であるのは明白だった。その持っている歴史背景の性質上、厳しい注意が必要であるのはもちろん、作者の姿勢と個性が表に出る作品となるため、私自身の資質を問われる試練だと感じた。
世界の歴史を見れば、戦艦大和に代表される日本軍が各国の人々にどのような影響を与えたのかが嫌でもわかる。それはとりもなおさず下宿の元海軍中佐や私の父、自分たち家族の歴史にもかかわりのある話であった。
『ヤマト』は歴史のはるか彼方にある英雄の物語ではない。それはとても身近なテーマであり、そしてどの部分にも「死」がつきまとっているのである。死を扱う話を描くのは、私には大きな重荷だった。
人の死の辛さというのは、肉親や親しい人を亡くした経験を持つ者でないと理解できないかもしれないと思う。なぜなら私も、妹を亡くすまで「人の死の実感」がまるでなかったからなのだ。
後に『銀河鉄道999』の中で、母親が流産して妹が生まれてこなかった話を描いている。鉄郎が「そのときおれがいれば、今の自分であれば何とでもしてやれたのに」「もし生まれていたら、どんなに貧乏でもおれが何とでもしてやったのに」というセリフを書いているが、それは自分の妹に対する気持ちが書かせたのだ。
身内の、しかも自分より年若い者の“死”というものに直面して以来、人が死ぬということについて笑えなくなった。それまでは、何人死んだ、ワハハと笑っていたこともあったが、もう、とんでもないことだった。死んだ人の家族、遺族はどんな気がするだろうと思うと、笑うどころか口にすることさえ苦しくなった。
戦艦ヤマトの話を戦争で家人を亡くした茶の間の遺族、他国の遺族がどんな思いで見るだろうかと思うと想像するだけで胸が痛んだ。それで私は、『ヤマト』を戦闘ドラマとしてだけの物語ではなく、「叙情感あふれる宇宙の海での大航海物語にしよう」という信念で、構想をまとめた。
『ヤマト』を描き始めて、改めて感じたことは、「かつての経験や知識が大いにモノをいう」ということだった。私は『ヤマト』の中で、ワープ理論や波動砲など自分が知っているいくつかの科学用語や知識を活かし、漫画に厚みをもたそうと試みた。
「ワープ理論」は、時間を波と考える論理であるが、担当者からは「さっぱりわからない」と苦言を呈された。それで図解して説明してみせた。
正確に述べれば、ワープと似た理論にテレポーテーションというものがある。テレポーテーションは空間を瞬時に移動するもので、ワープは時間を跳躍する。タイムマシン、タイムトラベル的現象は実際に宇宙で起こっていて、我々が見ている星というものは、百億光年昔の光を見ていることになるのだ。それらの星は撮影すれば写真として写るが、実際にそこにあるかどうかは、わからないものなのである。これをタイムマシンと言わずして何と言おうか。人智など及ばぬ偉大な宇宙の仕組みであるのだ。
現在の外国のSF映画などでもワープの時には波紋を描いているが、一九八五年に開催された筑波の科学技術博覧会で作った『アレイの鏡』という映像で、初めてコンピュータを使ってワープの際に宇宙に広がる波紋を描いた。今や映画では当たり前になっているワープ理論だが、世界で最初に登場させたのはもしかして自分が最初なのかもしれないと『インキンタムシ物語』に次ぐ「世界で最初の創作物」であると。
さて「波動砲」は、『ヤマト』を描くよりはるか昔に私が考えついた「宇宙波動理論」から来ている。考えついたというより「でっちあげた」のだが、この概念をんだのは小学校六年生のときに読んだ、『大宇宙の旅』からなのである。
宇宙を風船と考えてみる。風船の中にある宇宙は、閉じた宇宙である。その一ヶ所をつついたら、その波動は宇宙全体に広がるのではないか? という考えである。漫画にするにあたり、当時、九州大学機会工学部の大学院にいた弟のところに「実証せよ」と送ってコンピュータで検証させてみた。
「宇宙波動理論に誤りはないか?」
「あながちウソとは言えない。ただし注意せよ。未来には行けるが過去には戻れない」 という返事が返ってきた。 私はさらに考えてみた。〈閉じた宇宙〉では、今過ぎた過去がいちばん遠い未来だと考えれば、未来に行けるのではないだろうか。つまり、『時の輪の接する処』なら、過去も未来も行けるではないか、と。後に『キャプテンハーロック』の単行本を愛猫ミー君の墓に捧げたときに、「時の輪の接する処で又我がもとに集うことを祈る」と言ったが、由来は「宇宙波動理論」までるのである。
『ヤマト』の場合も体験を基にしている。厳密には、自分の体験ではないが、『ヤマト』は部下を失った父親の経験が生きている。
第一話で沖田艦長が「すまん」と謝るシーンがある。古代進に「なぜ兄さんを連れて帰ってくれなかった」と詰め寄られ、謝るのだ。これはまさに父の経験そのものだった。
キャラクターの絵そのものも、父にそっくりである。艦長という職責は、一家の長でもある。だから、描いているとどうしても父親になってしまうのだ。
『ヤマト』を作っている最中に、父の昔の写真が出てきた。恐らく三十代前半で、パイロット時代のものだ。をたくわえ鋭い目つきの父の顔は、今の三十代の人の顔よりもかなり年上に見える。侍のような顔でもあった。それにくらべ残念ながら私の顔つきは大分ふやけている。
『ヤマト』を見た親戚一同は「親父さんだ」と叫んだそうだ。それぐらい沖田艦長と父はそっくりだったのである。
父が昔よく言っていた言葉、「人は生きるために生まれるのであって、死ぬために生まれるのではない」これは『ヤマト』のメインテーマになった。
写真にまつわることで、面白い話がある。
『ヤマト』に出てくる「スターシア」、これも知らずのうちにモデルになった人がいた。シーボルトの孫娘である。私の母方の実家の隣はお寺であり、そのお寺のせがれは私の小学一年からの同級生であった。つい近年、電話で「松本〜見つかったぞ〜」と言って送ってくれた女性の写真……それが全て自分の描く女性にそっくりだったのだ。「傷ひとつなかったので現像した」と言って持ってきてくれたもので、数枚あったうちの一枚だった。
ダゲレオタイプの銀盤写真を見たとき、私は「あぁそうだったのか」と大きく納得した。というのも、私は昔から、彼女のような顔を描こう描こうと努力してきたし、実際のところ私が描く女性は皆、彼女のようなのだ。美人というだけではない。この骨格、気の強そうな雰囲気、優しくも厳しそうな瞳。何もかもが、そうだった。
先祖も彼女を見て、きっと美しいと思ったに違いない。彼女の顔形に憧れた先祖の思いが、五代目にあたる私にまで受け継がれているのではないのか?
写真は夫婦で写っていたものだが、隣りの男、つまりその夫が脇に差している刀を見て、文字通り目が点になった。じつは偶然にもその刀は私が所有していたのだ。写真を拡大してみると、巻きは白くて両脇にでヨーロッパ風の装飾がしてあった。滅多に見ない刀である。刀は地方の知り合いに預かってもらっているので、確認しようと私はわざわざ見に行ったぐらいだ。
刀は数年前、地方の骨董品店にふらりと入ったとき、店の主人に勧められて購入したものだった。主人は「いい刀ですよ」と言っていたが、値段が二束三文だったので私はあまり気にとめていなかった。
この刀に、その女性の顔が映っていたこともあるだろう。その刀を同志の子孫の私が持っているという不思議さ。私はらずには、いられなかった。
もちろん、彼女だけが私の追い求めていた顔ではない。学生時代に観た映画『我が青春のマリアンヌ』のヒロイン、マリアンヌ・ホルトと掛け合わさってできている。マリアンヌを描いた肖像画が印象的で、思春期の私のアタマに、彼女の美しさと自分の希望が重なってどうもインプットされたようだ。
スターシアにしても、メーテルにしても、私が描く女性が、先祖の近くにいた女性とマリアンヌ・ホルトが影響しているのは、そんな理由が隠されているのであった。
『ヤマト』のヒロインに森雪というキャラクターがいる。これにもモデルはいるが、その本人の顔を見たことはない。
彼女の名前は森木深雪さんと言う。『男おいどん』を連載していたときによく手紙をくれていた女性である。彼女は岡山の音大生で、いつも三人称で書いた手紙を送ってくれていた。「今日の森木さんは、何々をしました」という日記風の手紙だ。
結局、お会いすることはなかったが、そのときの印象が強くてヒロインの名前を決めるとき名字と名前から一文字ずつ頂いて、「森雪」と名付けたのだった。
いつだったかテレビを見ていたら、「○○深雪さん」という名のピアニストが映っていた。手紙の彼女かどうかはわからないが、年齢的には同じぐらいだったし、結婚すれば名字は変わるだろうから、「きっとあの人は、彼女に違いない」と思い、ありがとうございましたと最敬礼をした。
『ヤマト』の漫画連載とほぼ同時にスタートしたテレビ・アニメは、気の重さはあったものの、その点を除けばやはり嬉しい話ではあった。十三年前、ひとりでディズニー・プロに匹敵する大制作会社を創立しようと誇大妄想を抱き、なけなしの収入でセルやフィルムを買って取りかかったものの、ひとりではどだい無理だと気がついて幾星霜。何といっても経済的責任抜きで、向こうから「夢」がやって来てくれたのだ。嬉しくないわけがない。
アニメと原作のかかわりかたは、こうである。まずキャラクター設定、メカ設定、場面設定をして、簡単なプロットを書いて脚本家に依頼する。それが戻ってきたらもう一度検討する。最後は絵コンテを自分で描くという流れだった。アニメーション・ディレクターがいるから秒割りまではしないが、構図その他も全部自分で決めていた。
私のコンテのクセは、人間が重なっていることが多いことだった。斜めからしたりしているので、スタッフは大変だったらしい。こういう場面は人にはまかせられないから、全体の三分の一以上に自分の手が入ることになった。とくにスターシアとその妹は原画も含めてかなり自分で描いた。
私は次第にワクワクしていった。漫画でよく描かれているような宇宙など描くつもりはなくて、子どもの頃から真剣に見ていた専門書のリアルな宇宙を描くことに夢中だった。 「宇宙はエネルギーと光と物質に満ちあふれた世界なんだ、宇宙は生きているんだ」
そんなことをテレビを見る子どもたちに、伝えたかった。
自分でセル画の絵の具メーカーまで指定した。
「サクラマットのブルーを使ってくれ。これでないと絶対ダメだ」
サクラマットは、小学生が使う水彩絵の具である。間違えないでくれ、スタッフに念を入れた。
この絵の具は「抜け」がいい。つまりフィルムに対する光の反応が良いのである。これは私が下宿で実験していたときに体験として知ったものだ。
普通のアニメーションではバックを描くとき、を使う。が、これは白い粒子があるため、画面が少し明るくなってしまう。だから宇宙だけは、サクラマットのブルーを使いたかったのだ。
初回シリーズの『ヤマト』の星空のブルーがきれいなのは、そのせいである。後に「面倒だ」と言われたのでまかせたけれど、美しい宇宙となった。
私は、星の描き方にもこだわった。どうやったかというと、水道管に巻き付ける同府を使ったのだ。蛇口にホースを咬ませた時に外れないように締める道具である。長さも自由に調達できる。下にベロがついているが、そのS字のベロを水平にして、筆に白い絵の具をつけて、その道具ではじく。これは漫画で私がいつも用いている方法であった。あまりにも昔から使っていたので、いつ思いついたのかさえもう記憶にないが、おかげで人為的な星の散らばり方にならなかった。
ただ、星の色に関しては妥協せざるをえなかった。ピンク色や赤色などもあるのが実際の宇宙だが、それの色分けをやると映像上ではかえってリアルではなくなるのだ。それで星は白色で統一し、輪郭をぼやけさせたのも混ぜた。今はCGで簡単に描ける世界だが、当時はすべて手作業だった。時間がかかって面倒な作業だったが、人間の手で描いたものは温かみがあって、私は好きだった。
第一話からそんなことをやっていて、その上台本のセリフまで書いていた。一晩徹夜で一本分のセリフを完成させるのだ。
一方、連載中の漫画はどうなっていたかというと、もちろん描いていた。これまで通りに漫画の仕事を済ませ、今までなら睡眠にあてていた時間を、テレビ用のプロットやら絵コンテ描きに使うのだから、少々疲れた。しかも描き上がったものを自分で車を運転して近くの動画スタジオに持っていくという荒技をやっており、今振り返っても、よく事故を起こさなかったものだと感心している。
それからそれから音楽にも手を出した。かつて少女漫画の忘年会に呼ばれず、下宿でボリュームを大にして聞いていたあの曲、ベートーベン『第三番』の第二楽章が、『ヤマト』の主題歌につながっていった。アニメのテーマ音楽を作曲する宮川氏と主題歌の話になったとき、「ベートーベン三番風の……」と希望を出したのだ。「よし分かった!!」と宮川氏は即座に納得して下さった。プロとは偉大なものだと私は感謝しました。かつての趣味が、この頃から急に目立って役に立つようになってきた。
放送前から準備していたがこの有様で、放送が始まると眠れない日が続くようになった。テレビと雑誌のストーリーは少し違っているが、どうしてもテレビが先行したり、雑誌が追い抜いたりしてしまう。雑誌が月刊誌だったので、テレビのダイジェスト版にならざるをえなかった。
あまりにも忙しすぎた。忙しすぎて、周囲のことをかまいきれなかった。
そのために後悔していることがある。当時、いつも一緒にいた猫のミー君のことだ。乳ガンになったことに気がついて、「病院に連れていこう」と思いながらも徹夜の連続で、明日こそ、いや明後日こそと過ぎていくうちにガンが大きくなって死なせてしまったのだ。
猫が死んだのは『宇宙戦艦ヤマト』の十回目の放送のときで、その日のセリフには偶然にも「さよならミー君」というのがあった。ずっと以前、猫がガンにかかっているなどと知らないときに作ったストーリーだ。あまりにも切なすぎた。放送時間になると私は庭に作った墓に向けてテレビを置いた。佐渡酒蔵が「さよならミー君」と叫ぶシーンでは、ボリュームをめいっぱい大きくした。
この猫は、巣鴨に居たときから飼っていた猫だった。講談社から帰る道に「サミー」という大きな猫の看板があって、その下に捨てられていたのだ。今でもその看板はあって、帰り道に目にするのだが、いつも「お帰り」といって迎えてくれているような気がしている。
今、自宅には七代目のミー君がいる。
第3章 終わり